最近、上記タイトルの本を読み終わりました。

「怒らないこと」 という記事でも紹介した、
スリランカ上座仏教長老の方が書いた本です。

最近、思春期の子供たちのことで悩むことが多く
何かのヒントになるかなと思い、
「怒らないこと2」に続いて、読んでみたのです。

わかってはいたものの、
子どもに対しても執着しているんだなということがわかり
いろいろ目から鱗の一冊でした。

ただ執着を捨てて無欲に生きなさいと言っているのではなく
「もっと、もっと」と思う気持ちを捨て
必要量で生きていく。そして出し惜しみせず与える。
自分でどうしようもできないことや悲しみは
『自分の管轄外だ』と思う。など。
楽に生きていけるヒントがたくさんありました。

著者は、「儀式」も執着だと言っています。
ちょっと長くなるのですが、引用します。

--------以下引用----------------
儀式、儀礼といえば、宗教こそ何物にも勝る凝ったしきたりです。
(中略)
何の意味があるかわからない儀式やしきたりがたくさんあります。それは、人間には、何か習慣やマンネリになるものをやりたいという気持ちがあるからです。そういう気持ちをうまく利用して、宗教が生き延びてきたという面もあるのです。
たとえば、朝の1時間、お祈りをすると幸せになれると教えている宗教があるとしましょう。人は、それを信じて、朝の1時間、祈りをあげるのが好きなのです。「なぜ、この祈りと幸せになることが関係あるのか」と考えることまでは面倒だから、何も考えずに、ただその祈りを毎日こなしているほうがいいのです。
しかし、儀式・儀礼に執着していたら、本当の意味で幸せになることはできません。そのうえ「幸せでない」という心の状態を儀式・儀礼で満たそうという気持ちが強くなり、神社のお札を買ってきたり、パワースポットなどというところをまわったり、聖水などという水をありがたがって飲んだりするのです。
そうして、「この儀式・儀礼を行ったら自分は幸せになれる」という執着がどんどん強くなっていくのです。ますます儀式・儀礼から離れることができなくなってしまいます。
しかし、儀式・儀礼に執着している間は、人間はみじんも成長しません。
朝1時間も祈りをあげる、その1時間がもったいないと思いませんか?毎月1回、断食を行っても、天国に行けるという保証はありません。意味のないことをただ繰り返しても、時間と労力の無駄遣いになるだけです。そして、何かの習慣を守れば「救われる」という気持ちだけが強くなり、本格的な執着になってしまうのです。
----------------引用終わり--------------------------------

ブッダの教えを説いている宗教家の方が、儀式・儀礼も執着だと言っているのはびっくり。そして目から鱗でした。
活動家のころの自分、まさに思い当たります。
朝1時間お題目をあげて、なんだか満足していました。
まさに、それが楽だからです。
(学会はそれに付随していろいろな活動をしなければだめだよと言ってはいますが)
祈っている間は、それが正しい行いだと信じているし、何も考えずにいられたんだと思います。
そのころは、初詣のときだけ神社にお参りに行く人を冷めた目で見ていましたが、
本質的には一緒だったことに気づきました。

活動をやめた今、結局、たまに神社仏閣にお参りに行くし、
やっぱり儀式、儀礼が好きなんだな~と思いますが(笑)

習慣の大切さというのは良く言われますが、
やみくもに習慣を増やしていくのではなく、
本当に必要な習慣なのか、見極めていくことも大切だと思いました。

気になった方はぜひ。
ブッダが教える 執着の捨て方